白河街道を守る小屋山城

前回述べたが、当時の白河街道は現在と異なり、関の守城の東の湿地帯の中を通っていた可能性が高い。
白河の関跡の南には今も小川が流れているが、当時の街道はまずこの川を渡り、次に関の守城の東の湿地帯を通らなければならなかった。
白河の関の守りは足場の悪い街道を通らせることで、道行く人の歩く速度を制限し、そこに関の守城から横矢を仕掛けたことになる。
とすると関の守城は堀一重の館城であっても十分に脅威となったはずである。
さらには、関の守城を見下ろすようにその西の山に小屋山城が築かれている。
この城も基本的には堀一重の単郭の城で、大規模な兵を置くような構造にはなっていない。
「小屋山」という名称からしても、基本的には合戦時に村人が逃げ込んで小屋掛けをしたような城であったのだろう。
だが、当時の街道は関の守城、小屋山城という小さな二つの城で守られていたことは確かである。
(前回図『北の関ケ原合戦』より)
現在は小屋山城は街道から西に外れているが、当時はこの城の真下を通っていたのではなかろうか。
ただ、守りの主体は、規模からいっても上杉の大軍ではなく、この地域の村々が守っていたという感じが強い。
ここでも街道を守る主体は村であったのではなかろうか。
境目の村の掌握は戦国大名にとって、最重要の課題の一つであったことがうかがえる。
(小屋山城概念図)
(洋泉社『北の関ケ原合戦』より)

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