戦国の透波(すっぱ)にご用心

忍びの総称として「草」という名称を用いることが多いが、草の別称として、乱波(らっぱ)、透波(すっぱ)(素波)という名称を用いる。
透波には、盗人、詐欺師、すり、②野武士、強盗から出て間者をつとめた者、忍びの者、③邪心、偽りの心をもっている者といった意味があるという。
「北条氏邦書状」に「信濃から透波が五百人程来て、その地を乗っ取ろうとしている知らせが入った。昼夜ともによく用心しなさい。今は寒い時期なので、月夜でなくては忍びは付かないだろう。番の者は夜に三度ずつ来て、石を転がし、松明を投げ、忍びがいないかを見届けなさい。もし、敵の足軽が来ても、門を閉じて、城に籠りなさい。足軽は深く出てはならない」というのがある。
このとき、北条家の家臣は上野・武蔵と信濃の境目の城にいたと思われ、そこに信濃から透波が来て、城の乗っ取りを図っているという情報が入ったというのである。そこで透波について用心を命じたのがこの書状である。
忍びは夜間には月明りを頼りに城に近づくとされており、透波と忍びは同一の存在であることが分かる。
この文書では、これら透波に対して夜番を付け、石ころを転がしたり、松明を投げて忍びを警戒するよう命じている。
足軽が深く出てはならないとしているのは、透波の待ち伏せによる伏兵を警戒しているからである。
当時の城は警戒のために堀際に松明が焚かれており、空堀に継続的に松明を投げたり、石を転がしたりしていたことがこの文書から分かる。
城の空堀は、北条氏のように複雑な仕切りを入れたり(障子堀)、堀底に先の尖った木杭を打ったり、イガイガの生えた木の枝を大量に入れたり、堀底に毒蛇を入れるなどして敵の侵入を防いでいたようである。
また、山城の城壁は「切岸」といって斜面をできるだけ垂直に削って、その斜面に縦堀という垂直な堀を何本も掘り、横移動を防ぐ工夫がなされていた。
その上で、城の周囲に掘られた堀に石ころを転がしたり松明を投げて警戒したものと思われる。

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