聖域であった南宮山

毛利氏が布陣した南宮山は南宮大社の裏山にあるご神体ともいうべき山で宗教上聖なる場所であった。
南宮大社は美濃一宮として『延喜式』にも載っている古い神社であるが、かつて「仲山金山彦神社」と名乗っていたように、古代の鉄と関係が深い。
実際に南宮大社を訪れるとそこには鉄鉱石の原石が祭られている。
古代では鉄は武器、農耕具などに使用できる大変貴重なものであった。そして、この南宮山という山にはその鉄の鉱脈があったのなかろうか。それゆえに、その山をご神体とした神社が誕生したのではなかろうか。
そう考えると、毛利軍は南宮大社のご神体に布陣したことになる。
そこでは、南宮山を攻めることは神域を汚すこととなろう。
かつて織田信長に敵対していた近江の浅井氏・越前の朝倉氏を支持した比叡山を焼き討ちにしているが、「ここは神聖な神域で誰人もここを汚すことなどできない。それは神仏への冒涜である」比叡山側はそう主張したかったのであろう。
しかし、信長は「比叡山であろうが、どこであろうが、自らに敵対した以上、攻めるのは当たり前である」と比叡山を焼き打ちにした。
信長にとっては神域であろうとなかろうとそこが敵になった以上そこを攻めることは当たり前なのであった。
だが、それは信長だからできたことであり、神域はやはり手をつけたくないというのが人情というものであろう。
そのことから考えると、南宮山という神域は攻めてはいけない場所であり、そこに逃げ込めば絶対に安全な場所ということになる。
そこでは、毛利は御神体である南宮山に布陣した時点で合戦を放棄する意思を示したとも考えられる。

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