関ケ原は既定の戦場だった。

岐阜城を落とした徳川軍が次の目標を、美濃大垣城ではなく、近江の佐和山城としたことは、福島正則や井伊直政の書状で明らかです。
美濃から佐和山城へ向かうには、途中、関ケ原を通らねばなりません。
ここから、徳川軍は岐阜城落城後、直ちに関ケ原での攻防を視野に入れたことは間違いありません。
徳川軍が、美濃赤坂の岡山に陣を移すと、直ちに垂井から関ケ原にかけて放火したことはそれを何より示しています。
このとき、関ケ原での合戦は両軍において既定の路線になりました。
石田方もそれを強く意識したことでしょう。
ただ、そこにおいて、三成は大きなリスクを背負うことになりました。
それは、関ケ原において構築した防衛線が竹中重門を通じて徳川方に筒抜けになったことです。
さらに、関ケ原への隘路である垂井を押さえる菩提山城が竹中の心変わりによって徳川の城となり、垂井の防衛は根底から崩れることになりました。
ただ、一縷の望みは、毛利秀元を中心とする伊勢方面隊が垂井の南宮山を中止に布陣をしたことです。
南宮山は関ケ原への主要街道である中山道のすぐそばにあり、位置的には徳川軍の関ケ原進軍を阻止する形となっていることです。
しかし、三成にとっては一見歓迎すべきこの布陣に対し、三成自身は大きな不審を抱いておりました。
それはこの南宮山に実際に登ってみればよく分かります。

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