外国人宣教師の見た日本の戦国時代㉖

だが、やがて、ポルトガルは大砲生産にあたって熟練労働者と高度な技術が不足する事態となり、大砲の増産に支障をきたすことになった。これにより、マカオでは防御用の大砲が不足することになった。(1620年代以降)
大航海時代のインドとは、ポルトガルの支配圏に組み込まれていたエチオピアからサウジアラビア半島、インド大陸を経て、マラッカ、インドネシア、日本に至るまでの地域のことを指していた。
これをポルトガル領東インドという。
ポルトガル人は、1510年にゴアを攻撃し、そこを拠点にインド沿岸の主要地に商館や要塞を設けて、勢力の拡大と支配領域の拡大を図っていった。
そして、彼らは領国の包括域全体に大型帆船のナウ船団による定期航路網を作り上げた。
これはインド航路と呼ばれ、ポルトガル人はこれを中心に、リスボンから日本に至る広範な商業網を形成した。
この商業網を守るために、東インド領国内の要所に要塞や砦、商館が設けられた。
大航海時代、イベリア半島からポルトガルは東に、スペインは西に航路を取って船を進めた。
しかし、地球が球体である以上、両国は同じ大陸や島で鉢合わせする可能性があった。
その場合の土地の領有権と帰属先をどうするのか、それを解決するため、「権利の主張」と「ローマ教皇勅書」という二つの手段が取られた。
「権利の主張」とは、新発見地に上陸して自国の国旗を立て、声高に領有を宣言する。その後、地図に新発見地を付け加え、書簡や行政文書などに「ポルトガル国民の征服に属する地という一文を書き込む。そして、新発見地に至るまでの航海領域にも支配権を主張することが必要であった。

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