川中島合戦雑記1

川中島合戦は本当にあったのか?
永禄四年(1561)九月十日、信州川中島において武田信玄と上杉謙信が激突した。
そこでは、大量の戦死者が出、川中島を流れる千曲川は血で染まったとも伝えられている。
この合戦は、上杉謙信が一万三千の兵を率いて、眼下に武田軍の本陣海津城を見下ろす妻女山に布陣したことから始まる。
武田信玄はこれを挟み撃ちにするため二万の軍を二つに分け、一万二千の兵を妻女山に向かわせ、残り八千の兵を率いて妻女山の対岸の川中島にと進める作戦を立てた。
だが、謙信はこの信玄の作戦を察知し、深夜密かに妻女山を降り、千曲川を渡って対岸の川中島へと全軍を移動させた。
そうとは知らない武田軍も深夜に千曲川を渡り、対岸の川中島で妻女山から逃げ下りてくる上杉軍を待っていた。
折りしも、川中島は深夜から早朝にかけて厚い霧が一面を覆っていた。
やがて夜が明けて霧が晴れると、武田軍の前にはいるはずのない上杉軍が立ちはだかっていた。
合戦は始まった。数において優勢な上杉軍は武田軍を終始追い詰めたが、武田軍もこれを何とか支えていた。
戦いはいつしか、敵味方の区別もつかないほどの乱戦となっていった。
その乱戦のさ中、信玄の本陣目掛けてたった一騎馬を走らせ駆け込んできた武者がいた。
武者は信玄を見つけると馬上から信玄目掛けて太刀を浴びせた。
信玄はそれを持っていた軍配でしっかりと受け止めたが、武者は執拗に三度も信玄に太刀を浴びせ掛けた。
しかし、信玄の側近の槍に阻まれ信玄を倒すことはできなかった。
後で分かったことは、この武者こそ上杉軍の総大将上杉謙信その人であったという・・・・・・。
まさに、映画を見ているようなロマンあふれる劇的な場面の連続である。
この合戦が今日まで歴史フアンを引きつけてやまないのも無理はない。
だが、あまりにも有名なこの合戦、本当にあったのかどうかというと、実は?マークをつけざるを得ない。
というのは、この合戦の実像を伝える確かな史料がほとんど残されていないからである。

タイトルとURLをコピーしました