地図の上からは分からない①

関ヶ原の古戦場は四百年経った現在も岐阜県不破郡関ヶ原町一帯にその跡が当時のまま本当によく残っている。
しかも、東軍、西軍それぞれの著名な武将の陣所跡には地元の方により軍旗が掲げられており、誰の陣所かすぐ分かるようになっている。
その両軍の旗が風になびく様は圧巻である。
関ヶ原は明治のころまではまだ累々たる原野で田畑も多くはなかったというが、そういえば、今から35年近く前に関ヶ原を訪れたときも今のような賑わいはなく、原野の中に民家や工場が点在しているという程度であった。
しかし、現在、関ヶ原には工場や学校、住宅などが建ち、旧中山道、現在の国道21号線沿いには大規模な店舗が所狭しと建ち並んでいる。
さて、これはあまりにも有名な話であるが、明治十八年に陸軍の教官としてドイツから招かれた軍人メッケルは関ヶ原における両軍の布陣図を見せられると即座に西軍の勝ちと言ったという。
確かに布陣図だけを見てみると、西軍は東軍を三方から包囲する陣形をとっており、しかも高地を占め、有利な地の利を得ている。地図の上だけでこれを見たら、西軍の勝ちだと思うのも無理はない。
だが、地形というのは平面的な地図を見ただけでは分からない。
その微妙な高低差、そしてそこからどんな風景が見えるかなどということは実際に山に登ってみなければ分からない。そこにフィールドワークの重要さはあるといえる。
例えば、関ヶ原の入り口、岐阜県不破郡垂井町の南宮大社の裏山(標高404メートル)には、毛利秀元が関ヶ原合戦から8日前の9月7日に1万6千の兵を率いて布陣したとされる山がある。
毛利秀元は毛利家の当主で西軍の総帥でもある毛利輝元の養子で、その輝元の命を受け関ヶ原に兵を率いてやってきていた。
それまで、毛利秀元率いる毛利軍は伊勢(三重県)の家康方東軍の拠点であった安濃津城を攻めていたが、そこを開城させると、そこから伊勢街道を通って関ヶ原に入ったのであった。
当時、西軍首脳は関ヶ原に近い美濃(岐阜県)大垣城に集結していたが、毛利軍はそこに入らず、関ヶ原の入口ともいうべき垂井の南宮山に布陣したのであった。
この南宮大社の裏山、南宮山と呼ばれる山は山下から見ると稜線はなだらかで険しい山には見えない。
さらには地図上からも一見等高線はゆるやかそうに見える。だが、実際に登ってみると登山道はかなりの急傾斜で、麓から1時間もの間、急傾斜のきつい山道を登り続けなければならない。
登山道はいくらか整備されているとはいうものの、途中何回も休みをとりながらでないととても一気には登れない。普段から足を鍛えた人でないとかなり登るのはきついのではなかろうか。
かくいう筆者も情けない話しだが、初めてこの山を登ったとき、途中で体調を崩しリタイアしてしまった。しかし、驚くことにこの山を登る地元の方は大変に多い。それもほとんどが年配者である。
そのうちの一人の方など、「毎日この山を登るのが日課で、ここはちょうどよいハイキングコースですよ。」と話していた。
こんなきつい山を毎日登るなどとても信じられない。まさに「アン・ビリーバブル」である。この地域の年配者は本当に元気である。
筆者はそれから何とか体調を整え、二度目の登山でやっと頂上までたどりつくことができた。だが、そこまで行くのに体がきつく、呼吸が乱れて時間がとても長く感じたことを今も覚えている。
しかし、このきつい登りを実際に体験して、筆者の中に一つのある素朴な疑問が浮かんだ。
それは「なぜこんなにきつい山の上にざわざわ陣を布かなければならなかったのか」ということである。
確かに車も自転車もない時代の昔の人は現代の人よりはずっと健脚であったとは思う。だが、陣を布くということは単に山を上り下りするだけではない。大量の人、馬、荷物をそこに運ばなければならない。水の確保も大変だったであろう。
しかし、この山をきついと思っているのは現代に生きる筆者だけではなかった。

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