滝山城築城500年記念講演会より 5

千畳敷の虎口について
「浅野文庫諸国古城図」では、千畳敷の虎口は単純な「平虎口」で防御性の高いものとはなっていない。
だが、現状では虎口を入ると前面に土の壁が存在している。
以下は現状の写真である。

この壁上には当時は塀が設けられていたと思われ、千畳敷の虎口、すなわち門を入ると左右に小門があったと考えられる。(以下の図は中田正光氏作図による)

つまり、千畳敷はまず入口の門を入ると、左右にそれぞれもう一つの小門があるという複雑な構造になっていたのではなかろうか。
左右に門があるということは、それぞれに目的があったということであろう。
例えば、千畳敷への入口と出口とを区別したということではなかろうか。
曲輪への出入口を別々に設けることは例がないわけではない。
近江小谷城の京極丸、安土城の伝大手口などがそれである。
小谷城の京極丸は近江守護京極氏の屋敷があったと伝えられる曲輪であり、曲輪への出入りにはそれぞれ別の門が使われている。
それは、京極氏という貴人のためにそういう形式を取ったものと思われる。
同様に、安土城の伝大手口の二つの門も貴人、例えば天皇などを迎えることを意識して造営されたのではなかろうか。
以下の図のように安土城伝大手口には複数の門が存在していたことが分かる。

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