佐和山の思い出9

佐和山城は中世の山城をベースに主要な部分を近世城郭にしたものと考えられていますが、彦根城築城にあたって凄まじい破城を受けたことで、高石垣が消滅し、土の城になってしまいました。
そこから、一見すると中世の山城に戻ったような印象があります。
事実、大手門の跡とその両側に広がる塁壁もすべて土塁作りになっています。
ここには「三成に過ぎたるもの」といわれた城の面影はどこにもありません。
せめて、石垣だけでも残っていたら、佐和山城は「天空の城」竹田城のような様相を呈していたのかもしれません。
江戸時代の聞き書きによれば、曇りの日には天守の鯱が雲に隠れるほどであったということです。
しかし、ほとんどすべての石垣が取り除かれた結果、本丸はただの山の平らな山頂と化し、周辺の曲輪も千畳敷といわれる曲輪を除き、中世の山城の曲輪と区別がつかないほどになってしまいました。
千畳敷の曲輪には枡形虎口が残っていることから、この曲輪の壁面は石垣作りであったことが想像され、本丸と並ぶ高石垣で覆われた広い曲輪であったことがうかがわれます。
城と言うのは、石垣を外されると、城壁のシャープさは失われ、壁面は徐々に崩れていき、自然地形と同一化されていくことが佐和山城からよく分かります。
ただ、本丸直下にはわずかに石垣の一部を構成していたであろう算木積みの二段の石や鏡石であったと思われる表面が加工された巨石が残っていることから、佐和山城の少なくとも本丸は高石垣で覆われていたことが推定できます。

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