雪のノロシ山

 あれは、今から30年以上も前の1987年3月の終わりであった。
 信州川中島を取り巻く山にはまだ雪が残っており、長野市松代町は曇天で空は鉛色をして肌寒かった。
 東京はここ何日か暖かい日々が続いていたが、まだ、松代は春を迎えてはいなかった。
 しかし、それは我々にとって計算外の出来事であった。前もって、現地の天気や山の様子を調べてくればよかったのだが、今のようにインターネットなどはない時代であったので、ついおっくうになり、基本を怠ってしまったのであった。その日を調査日に決めたのは単に3月の連休だったからで、他に意味などなかった。
 松代の山にもまだ多くの雪が残っていたが、我々は雪山に登る準備などしてはこなかった。 
 我々が目指そうとしていたのは、「ノロシ山」という松代の南にある標高844メートルの山である。
 我々は雪に覆われた山を山麓から見上げながらため息をつくしかなかった。
「どうしよう。でも、ここまで来て引き返すのはもっと悔しい。」我々は雪山への決行を決めた。
 「ノロシ山」は頂上が尖ってちょうどピラミッドのような三角形をしており、この山が「ノロシ山」と呼ばれているのは、ここから武田氏が周辺に急を知らせるノロシを上げたとされているからである。
 よく、山にはノロシを上げたという伝承があちこちで残されているが、そこへ行ってみると城跡であることが多い。その意味では「ノロシ山」はその名前からして、城跡である可能性は高い。
 もし、そこに城があったなら、眼下には川中島の全景はもちろん北は善光寺から戸隠、南には上田、遠く佐久盆地まで見渡すことができるであろう。その意味では、興味有る山であった。
 しかし、この天気である。空はどんよりと曇り、松代周辺の山はどれもぶ厚い雲に覆われていてどれが「ノロシ山」か判別すらできなかった。
 常識的に考えると、こんなときに山に登るのはまったくの無茶というものであろう。もし、私が一人であったなら絶対に「やめた。」と即座に登山を中止したことであろう。
 我々は無言で四輪駆動の車を走らせ、山道をどんどん登っていった。途中から、道は雪で覆われていた。しかも、上に行けば行くほど雪は厚くなっていく。そのせいで車は途中からなかなか前に進むことができなくなった。さらには、道そのものも途中から消えてしまっていた。
 我々は途中で車を止め、車から降りると、リュックを背負い、山の斜面を登っていった。
 斜面に生えている草や枝は枯れたものが多く、それをつかんで登ろうとすると引っこ抜けて足を滑らせそうになった。仕方なく、石や岩をつかんで登ったが、雪で滑ってつかみにくい。おまけに冷たい。
 そうこうして、二十分も斜面を登っていくと、やっと尾根に取り付いた。
 「すごい雪だ。」尾根上は雪にあまりなじみのない我々にはまさに豪雪といった感じで、腰から下がすっぽり雪に埋まってしまうくらいの深さであった。しかも、尾根はそこから、急な角度で頂上に向かってスロープを描いており、険しい岩山という印象である。私は思わずスイスのマッターホルンを思い出し、まるで、登山家が冬山を登頂しているかのような錯覚に陥った。
 だが、実際は雪が下半身をとらえてなかなか前に進むことはできない。それに、今、登っているこの山が本当に「ノロシ山」であるという確証はどこにもない。
 「ここで遭難するなら二人一緒だ。」もう半分破れかぶれであった。
 「寒くないかー!」我々はお互いに叫んだ。寒く、冷たかったが、今さらここで泣き言を言っても始まらない。
 「大丈夫!そう叫び返すしかなかった。
 それから、一時間ほど尾根を登るとやっと頂上についた。頂上は平坦で、そこには我々が登ってきた尾根を分断するための「堀切」という溝が掘られ、山頂から山の斜面に向かっては斜面を溝状に垂直に掘った長い「縦堀」が滑り台のようにずっと下まで落ちていた。まさに、それは典型的な山城の特徴を備えていた。
 やはり、「ノロシ山」は城だったのである。
 我々は「おー」と思わず声を出した。これが有名な雪山の頂上であったなら登頂の成功を抱き合って喜ぶところであろう。
 晴れていたら、ここからの眺望は最高だったに違いない。しかし、今はガスがかかっていて眼下はおろか山頂周辺もろくに見えない。
 「さあ、書くぞ。」
 我々はリュックから、クロッキー帳を出して、城跡の遺構を書きとめようとしたが、山頂はみぞれのようなものが絶えず降っており、帳面が濡れてなかなか思うように図が描けなかった。そこで、私はリュックから傘を取り出して、もう一人の頭上にさし、一人がが傘の下で図を描いた。
 図を書き終えると、「もう二度とここにくることはないだろう。貴重な証拠の写真を撮っておいた方がいい。」とカメラを取り出し、頂上にある平坦地「郭」や「堀切」を写真に収めた。
 「ノロシ山」からの帰りは早かった。
 それは二人とも山の斜面を駆け下りるときに何度も何度も滑って転がっていったからである。我々はまるで自分が雪ダルマになったようで、そのたびにどっと大きな笑い声を上げた。足はもちろん体中が冷たかったが、何か心は楽しかった。
 「いやあひどい目にあったなあ。」我々は宿に帰ると、ずぶぬれになった作業服や作業靴をストーブの前に置いて乾かした。作業服からはいつまでも湯気がずっと出てきてなかなか乾かなかった。
 我々は、この「ノロシ山」の調査で、川中島に武田信玄が築いた海津城がその背後を堅固な山城で守られていたことをあらためて実感した。
 よくいろんな本に「武田信玄が海津城を平地に築いたのは大胆ともいえる試みであった。」などと書いたものを見かけるが、信玄は大胆どころか細心の警戒と注意を払って海津城を築いていたのであった。
 戦国時代の戦は現代の我々が思うような感覚で行われたわけではない。そこでは、城一つ築くのにも命がけの細心の注意が払われていたのである。なぜなら、そこでは小さなミスといえども命取りにつながったからである。
 誰でも、死にたくはない。そんな命がけのぎりぎりの攻めぎあいの上に戦国時代の城と戦は成り立っていたのではある。

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