「川角太閤記」巻2を読む 前田利家、越前の柴田勝家のもとに帰る

勝家からの返事は「逗留は苦しからず、ゆっくりと逗留なさってください。何様にも隔心などはありません」とのこと。
この返事を秀吉に見せると、心安くなられたようである。(その後、数寄屋は無事に完成した)
天正十年九月二十日の朝の数寄屋で御茶が終わると、鎖で釜をつるした茶室でくつろがれ、「この上は、やがて越前に返事をお返せねばならぬ」と吉光の脇差、虚堂の墨蹟を進められ、そのような馳走をなされた。
勝家殿へのご返事には前田殿を使者として「岐阜、京都にての御有様、御心底残さず聞かせていただき、その上、何事も天下様の御ためでございます。我らにおいては、心中如才を存ぜずということです。勝家殿からの御起請のごとく、我らも仕り、利家御前において起請を書きました」と吉日を選んで又左衛門にお渡しなされた。
「その上は、来春、吉法師様御上洛なされることはもっともだと思っております。そうであるなら、吉法師様の御守はいよいよ拙者へ仰せつけられるのが然るべきと思います。岐阜より大津までの御宿泊、御茶屋、拙者に仰せつけ下さい。そうすれば、世間への外聞も然るべきと思います。近江板取山、その外の近辺の材木を取り、杣(そま)番匠などを仰せつけられるようお願い申し上げます。播州の杣取り番匠をここよりその山に遣わします。」と勝家にねんごろに仰せ上げられ、「御納得なされば飛脚一人を下さい。必ず待っております。」と申し上げ、「すべては御意にお任せします」と又左衛門に「お帰りなされよ」と姫路より三里出て送り迎えの仮の館を仰せつけられ、その所まで筑前守殿、又左衛門をお送りなされ、「これで私の勝家様への馳走はすべて終わりました」と盃の上、正宗の腰の刀を抜いてこれを勧められた。
又左衛門も、「これは不出来でありますが」と祝儀のためと長谷部の刀を勧められた。
「これは又左衛門から戴いたとは思わず、勝家様から戴いた御腰物」と仰せられ、すぐに御腰に差され、互いにお暇を告げられた。
又左衛門は越前に帰り、播磨においての歓待の様子、返事の次第を残すところなく勝家に伝えられた。
勝家は「又左衛門を使者に立ててよかった。これほどまでとは思わなかった。これで目出度く収まった。
「大慶これに過ぎず」と長光の刀を勧められたという。

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