松尾山城への入城者は「中国衆」

そう考えると、松尾山の城の中心部である本丸に入るべき人物は貴人、つまり西軍のVIPであったのではないか。
だから、それにふさわしい立派な門を配して格式を整えようとしたのではなかろうか。
松尾山城の桝形虎口は、櫓を配したもので、南宮山のものよりはるかに立派である。
さらに、本丸への入り口には丁寧に作られた立派な馬出曲輪もあり、格段に整備されている。
実は、この松尾山城に匹敵する立派な山城が、関ケ原周辺にもう一つあったことが最近の現地調査で判明した。
松尾山とこのもう一つの城は明らかな共通点がある。
もう一つの城については、後に考察したいと思う。
それでは、松尾山城に本来入るべきであった人物とはいったい誰だったのであろうか?
その答えは、石田三成が関ヶ原合戦の直前に大坂城にいる豊臣家の奉行増田長盛へ宛てた書状の中にあった。
その中で石田三成は「江・濃之境目松尾之城、何れの御番所にも中国衆入れて置くべき」と述べている。
ここにある「江濃之境目松尾之城」とは松尾山城のことであろう。
とすると、この書状より、三成が松尾山城に入れたかったのは「中国衆」であったことが分る。
「中国衆」というのは、当時日本の中国地方を支配していた毛利氏の軍のことである。このとき、毛利家の当主毛利輝元は西軍の最高責任者総帥として大坂城にいて豊臣秀頼を擁していた。
また、一部の兵は近江の瀬田付近に集結していた。

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