昔、佐和山に登ったこと⑭

私は、多賀大社に行くと社務所に行き、そこで「社頭古絵図」を見せてもらうようにお願いした。
だが、絵図は神社の大事な宝物だということで「一般公開はしていない」とむげに断られた。
しかし、次はこの多賀大社にいつ来れるか分らない。わざわざ絵図を見るために東京から車を飛ばしてやってきたのだ。
何回かの押し問答の中で私がわざわざ東京からこの絵図を見るためだけに神社を訪れたことを知った神官は「負けた」という顔をして、「普段はこんなことは絶対にしないんですが、今回は例外中の例外、本当に特別ですからね」と何回も念を押して、私を中に案内してくれ、特別に実物を見せてくれた。
「社頭古絵図」は長い絵巻物で、その隅に山頂の木々に紛れて城の天守閣と隅櫓と思われる二つの建造物が並んで描かれていた。そこには、確かに「澤山城」という白い付札が貼られていた。
私は案内してくれた神官に「なぜ『社頭古絵図』に佐和山城が描かれているのですか」と尋ねると、その神官は「当事、佐和山城のそばに多賀大社の末社である千代宮があった関係で城が描かれているのだ」と教えてくれた。
佐和山城は多賀大社の末社である千代宮のそばにあったため、ついでに描かれていたのだ。
だが、ついででも何でもそこに佐和山城が描かれていたという事実は何よりも貴重である。
ただ、絵図に描かれている天守閣は小ぶりでどう見ても三層にしか見えない。
聞書によれば佐和山城の天守は「五重」であったという。
その点が少し食い違ってはいたが、少なくとも、その外観は「大坂の陣屏風」に描かれている大坂城の天守を小さくしたような桃山風のしゃれた建物であり、西明寺のものよりはずっと現実味があった。
後で聞いたのだが、この「社頭古絵図」の実物を見た人など研究者でもほとんどいないという。
まして一介の素人である私が見せてもらえることなど本当に稀なことだそうで、私は本当に運がよかった。

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