山頂に押し込められた大将毛利秀元

現地に行ってみると、もう一つ、不審な点が浮かび上がる。
それは南宮山山頂の入口には、虎口を構えた土塁や櫓を建てたと思われる櫓台、堀切など陣城を築いた跡が残っており、山頂に本陣が構えられたことは疑いがない。
しかし、山頂付近には大軍が布陣できるような人工的な平坦地は見られない。
もちろん、山頂までの途中にもそれらしき跡はない。
南宮山山頂に布陣したのは大将毛利秀元とその側近の重臣たちであり、その他の家臣や兵たちは南宮山山麓に布陣していたと考えられる。
見方を変えれば、大将毛利秀元は身動きできない山頂に一方的に押し込められてしまったともいえる。
南宮山山麓には、吉川広家がおり、東軍に寝返る工作が確かになされていた。
関ヶ原合戦の前日、九月一四日に広家は家康の腹心井伊直政・本多忠勝との間で「家康に忠節を尽くす」との起請文を交わしている。
そこには、「広家の忠節が明かになれば、毛利家の分国を安堵する」とあり、広家は毛利家を守るために土壇場で東軍に味方することをはっきりと決めたことがわかる。
しかし、問題は吉川が布陣した場所である。

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