先週、八王子ロータリークラブ様からお招きを受け、卓話として歴史講演をさせていただきました。
慣れない場でしたが、皆様、熱心に聞いていただいたので、無事に終わりほっとしております。
明日は南新宿で生涯学習の皆様に二年ぶりの講演をさせていただきます。
さて、今回からは「川角太閤記」巻2を読んでいきたいと思います。
巻2は秀吉と柴田勝家との確執が描かれております。
ここにも、細心にして大胆な秀吉の手の打ち方がよく描かれております。
あまり知られていないエピソードも出てきますので、お楽しみに。

長岡父子、秀吉に味方すること
筑前守殿より、大坂の御番衆へ仰せ聞かされたことは、「その御城(大坂城)は誰にも渡してはならない」ということであった。
その子細は、上様(信長)の跡を継がれる天下人へ目出度く渡されるべきであるということであった。
そのため「城の番は油断なくすることが大事である」ということであった。
御留守居衆は御門を固め、信孝殿も丹羽五郎左衛門もそれぞれ国へ帰って行った。

秀吉が播磨姫路城に帰られたところに、長岡(細川)兵部父子より、松井佐渡守を使者に立てられた。
与一郎(細川忠興)は明智の婿であったことから、定めて明智と同じ行動を取ると思われるであろうから、起請文をもって申し上げるべきであると使者を立てられたのであった(中略)。
そのころ、近国・他国の大名・小名に至るまで、播州姫路の御城への使者・早飛脚が大手門に駒を立てる余地もないほどあふれ、道も押し分けられないほどだと
人々は見ていたので、その噂は四方へも聞こえるほどであった。

岐阜城にて織田家重臣会議のこと
越前より柴田修理勝家、岐阜のお城へ伺候され、三七殿(織田信孝)を伊勢神戸の城より岐阜へ移され、分国の大名・小名に至るまで岐阜に詰められた。
「談合申すべき子細あり」と触れられたので、皆残らず直参なされたそうである。
筑前守(秀吉)殿も姫路を発って岐阜へ参られた。
大名衆の中で越中国を拝領されている佐々内蔵助(成政)殿は柴田殿の命で国に残られた。その理由は越後の上杉対策であるということである。
筑前殿が姫路を御発ちになるとき、信勝(信長の子、秀吉が養子にもらい受けた)殿を同道なされ、丹波の明智の居城亀山城を番するために入れて置かれた。