外国人宣教師の見た日本の戦国時代㉓

イエズス会は1540年に正式な修道会として公認されるが、そこにポルトガル国王ジョアン三世から、ポルトガル植民地のインドでキリスト教を広めるための宣教師を送ってほしいとの要請があった。
ザビエルはリスボンから出航して13ヶ月の船旅の後、1542年5月にインドのゴアに到着した。
前述したように、ザビエルはマレー半島のマラッカでアンジロウという日本人に出会い、日本での布教を決意し、1549年8月15日、アンジロウの故郷鹿児島に上陸した。
ザビエルの日本布教は2年3ヶ月に及び、平戸、京都、山口、豊後府内を訪問し、訪問最後となった豊後を1551年11月15日に発ち、翌年2月に無事にゴアに戻った。
ザビエルは東アジアや日本での経験から、中国の影響の大きさを知り、中国の皇帝に会って宣教許可を得られれば、東アジアでの布教活動が進むと考え、マラッカを経由して中国広東沖の上川島に上陸し、そこから中国本土へ渡る機会を待っていたが、その地で高熱の病に冒され、1552年12月3日、46歳で亡くなった。
ザビエルは日本を離れるとき、4人の日本人を連れていった。
そのうちの一人が京都への旅を共にした鹿児島の青年ベルナルドであった。
彼は、インドからポルトガルのリスボンに行き、コインブラという市で学び、やがてイエズス会員となり、修道士となって1557年ローマに行った。
ベルナルドはローマに行った歴史上最初の日本人となった。
惜しむらくは、ベルナルドはその年、コインブラに帰ると病で亡くなってしまった。

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