関ケ原、島津隊の敵前逃走

九月十五日、関ヶ原での勝利が決まったころ、戦場から大坂方と思われる兵の一団が徳川軍の中を突破して戦場を離脱しようとする事件が起きていた。
彼らは、幟や旗指物を捨て、徳川軍と同化して、ひたすら進んでいった。

『吉川家什書』
「島津などゑり勢三千にて、随分一合戦は仕るべく候つれ共、中々馬を入れ相成らず候。その身一騎のりぬけ、伊勢地之ことく退かれ候。」

『慶長記』
「今日(15日)軍入り乱れ、島津兵庫頭(義弘)馬に乗り、徒歩の兵二百ばかり、兵庫頭を真ん中にして逃亡しようとしたのを、井伊兵部(直政)が見かけ、是非、兵庫頭と戦わんと馬に乗って追撃しているとき、五間(約9メートル)ほど脇で鉄砲が狙いを定めているのを見かけたが、折を見てと思っていた時に、鉄砲に当たり、兵庫を逃してしまったと直政は語っていたそうである。直政を討った者は島津の家臣で岡本半助という名前だったようだ」

『東遷基業』
「直政の二千ばかりの兵は我劣らじと追いかける。島津の兵はこれを見て二町ほどの間は早足で退き、小高い丘に駆け上り、ひしひしと折敷て、鉄砲を一面に並べ、その後に槍を伏せて待ち構え、鉄砲を放った。そのとき、直政が真っ先に進んできたので、島津の家臣河上左京の士柏田源蔵が放った鉄砲で直政腕を撃たれ、馬より落ちたが薄手だったので事なきを得なかった」
島津隊は三成陣の南に陣を布いていた。
だが、当初から、防衛一辺倒で積極的に戦うことはなかった。
下手に戦えば、わずかな人数では全滅する恐れがあったからであろう。
もし、大坂方が優勢になり、勝つ見込みがあったなら、最後の場面では打って出た可能性もあったろう。
しかし、敗戦が決まった以上、そこで戦うことなど意味はなかった。
島津隊は徳川軍の追撃にほとんど壊滅しながらも、大将の義弘と家臣数十人は無事に戦場を脱して、大坂から海路で薩摩に帰還することに成功した。

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