寺院・仏閣と共存していた佐和山

近年、井伊家所蔵の文書から、三枚の佐和山城絵図が発見された。
いったい、なぜ、井伊家は自らが破壊した佐和山城跡の詳細な絵図を所蔵していたのか、その理由は判然とはしないが、その中の一枚の絵図を見て感じることは、佐和山城があった佐和山にはかつて神社・仏閣が多く存在していたという事実である。
かつて、佐和山城内には法花丸という一郭があって、そこにはかつて法華宗の寺があったというが、この絵図を見る限り、佐和山には城の大手門を入るとすぐ南に宮があり、山の北側にも、八幡宮、山神権現、大正寺、仁王堂、ケイセン坊、チンクハン坊、ユンナン坊、キンハン坊という寺の坊があったようだ。
また、城の裏手、湖側にも豊国神社、宗安寺、三成が母の菩提を弔うために建てた瑞嶽寺などが存在したようである。
この佐和山と湖との間には後に彦根城が築かれる以前には彦根山があり、そこには門甲寺、彦根寺、石上寺などがあり、ここは有名な霊山であった。 
これらのことから分るように、石田三成の佐和山城はそれら多くの寺院・仏閣と共存していた。
もちろん、それは石田三成自身が京都大徳寺に三玄院を建立したり、佐和山城内に瑞嶽寺を建てるなど信仰の厚い人物であったことも関係してはいようが、それだけの理由であったのだろうか。

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