湧き水を城に運んだ?桐原城

前回の続きですが、図の中で、興味を引くのは、桐原城のある尾根の背後、北西の方向の尾根上に湧水が湧く池のような場所があり、そこから水を城に引いていることである。
このような城の図は他に見たことがなく、大変興味をそそられた。
そこで、桐原城の跡に実際に行き、その図にあった湧水の湧いている場所やそこから水を引いた跡があるかどうかを確かめることにした。
桐原城に実際に行って驚いたのは、山麓部分を含めた現代の地形がその江戸時代初期の図とそれほど大きく変わってはいないということであった。そこに描かれている屋敷も外見こそ変われ、同じ場所に存在していた。
ここでは時間は江戸時代から止まっていた。
しかし、桐原城のある尾根を奥の方までいくら歩いてみても、そこにはもう湧水の池などどこにもなかった。池は水が干上がってしまったか、あるいは何らかの原因で水脈が途切れてしまったのかもしれない。
ただ、桐原城の背後の尾根にはそれを縦断するように掘られた通路のような空堀というか溝のようなものがあり、それが城まで続いていた。この手の堀は尾根を横断するように設けられているのが普通である。というのは、尾根を横断するように掘れば、尾根を遮断する空堀となりそこで敵を防ぐことができるからで、これを「堀切(ほりきり)」と呼んでいる。
その意味で、尾根を縦断するような堀は他の山城では見たことがなく、また敵を防ぐという観点からみると、どこまで有効かは分からない。つまり、軍事的なものとは考えにくいのである。
となると、この溝というか堀は湧水を城に運んだ水路の跡ではないかとも考えられる。この溝の中を直接水が流れたのか、もしくは竹を割って樋のようにしたものを溝の中に置いて水を流したものか。
いずれにしても、それは貴重な戦国時代の水道管のようなものだったのかもしれない。
桐原城は二つの沢に挟まれた尾根の上に築かれた城であることから、尾根上に豊富な湧水があったとしても何の不思議はない。沢の水は常に地下に浸透し、そこから土壌を伝わって尾根の上まで上がって来る可能性があるからだ。
そして、その水を城内に引くというのはとても理にかなっている。
というのは、沢の水そのものよりも土の細かいフィルターを通った湧き水の方がよりおいしく安全だからだ。
例えば、縄文遺跡は必ずといってよいほど湧水のある場所にある。例えそれが沢や川のそばであっても、住居はそこから少し離れた場所に設けている。
もちろん、そこには洪水や氾濫から身を守るということもあろうが、水という観点から考えれば、やはり、川の水そのもの、沢の水そのものよりも湧水の方が水質的に優れているからなのではなかろうか。
特に深い地層から湧き出る水はミネラル分も豊富でおいしく、雑菌なども少なく安全である。
古代や戦国の人たちは経験上、また長年の知恵でそのことをよく知っていたにちがいない。
それゆえ、湧水を求めてそこに住居や城を営んだのではなかろうか。
桐原城の場合もすぐ真下を流れる沢の水を利用せず、城の中に湧いていた水を段差を利用して曲輪に運んだ方が水を汲む面倒な手間も省けるし、さらに、より安全だと考えたのかもしれない。

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