千曲川水系の拠点 海津城その1

 武田信玄の川中島における一代拠点であった海津城はその跡がそのまま近世の松代城につながっているため、武田時代の詳しい構造は分からない。
 また、松代城そのものも江戸時代、千曲川の洪水などで度々被害を受けたため、何度か改修を受けており、その姿が当初とは大きく変わっていったことは否めない。
 だが、松代城の初期の城絵図をみると、その縄張りは武田系の城の特徴を色濃く伝えていることがわかる。その意味では、松代城は武田氏の築いた海津城の縄張りを基本的には踏襲していた可能性がある。
 その傍証として、近年、松代城整備のためその本丸部分が発掘されたおり、武田時代と思われる堀の一部が本丸の堀付近から発見されたことが分かっている。このことから、松代城は武田時代の海津城を規模的にはそのまま継承したとの推定がなされている。
 しかし、この城の成立には謎が多い。
 その一つは、海津城の築城年代である。『甲陽軍鑑』には「天文二十二年八月吉日、清野屋敷を召し上げ、山本勘助道鬼に縄張りさせ」と、天文二二年に山本勘助の手によって清野屋敷の跡に築かれたことになっている。
 しかし、天文二十二年は武田軍は初めて越後軍と戦い、後退を余儀なくされた年である。
 そのことから、この時点で信玄の勢力がとても川中島に及んでいるとはいえず、そこに海津城を築く余裕などなかったことであろう。また、確かな文書にも海津城のことは何も見えず、この天文二十二年に海津城が築城されたという説は信頼し難い。
 海津城が確かな文献に出てくるのは、永禄三年(一五六〇)九月二三日の内田監物に宛てた書状であり、そこには「海津在城」にあたり監物の知行地の普請を免除するとあり、このころには海津城が完成していたことが分かる。
 この内田監物は弘治元年(一五五五)信玄より佐野城在城を命じられていた人物で、弘治元年、三年と川中島での合戦にかかわる感状をもらっているところから、引き続き佐野城もしくは川中島のどこかの城にいて、拠点である海津城の完成に伴って海津城に移り在城することになったのであろう。

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