佐和山からの移築はあったか?

佐和山城は彦根城に一番近く、さらには彦根城が完成するまでは井伊氏は佐和山城にいたわけであるから、当然、そこにあった櫓や門などの旧材は彦根城に使われた可能性が一番高いはずである。
事実、本丸の太鼓櫓門は、佐和山城の谷間にあったものが移築されたとの推定もなされているほどである。
ここでは佐和山城移築の事実が故意に消されているのではないかという疑問が残る。
これに関して、海津栄太郎氏は佐和山城の旧材は独立の構造物としてはそのまま使われなかったのではないかという見解を示している。
つまり、それらを解体して、建築物の部材として門扉などに使われたのではないかというのである。
それは、旧石田色の一掃のためで、佐和山城の破却が領民の旧領主石田三成に対する思慕を断ち切る目的で行われたためにそういう形になったのではないかとする。(海津栄太郎『彦根城』)

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