「川角太閤記」巻1を読む 秀吉軍備前に入る

秀吉は六月四日丑の刻(午前二時)に陣を引き払い、備中を過ぎ、備前に入ったところ、福岡の渡りにて大水が出て、簡単に渡ることができそうにないので、福岡に陣を取り、在所の庄屋、大百姓を人質に取り、竹貝を吹いて、彼らを人質に取ったことを知らせた。
その上で、国中の水泳の達人を頼みとすべく雇われ、先ず、備前の宇喜多秀家が一人も残さず渡ることができた。
秀吉公は家臣たちを一人も取り落とすことなく、武具道具まで恙なく渡され、先ず草履取り、次に若党次第次第に繰り越された。
仰るには、「このような時は、一人取り落とせば五百も三百も損じたるようなものである。荷物は一荷取り落とせば、百も二百も荷を流したようなものだ」と。「心静かに川を渡れ」と下知なされ、川端に座っておられたところ、森勘八が到着し、「毛利家も特別なこともなく五日の四つ過ぎに兵を退いていきました、命令通り堤を十二、三か所切って参りました」ということであった。

秀吉はそこから毛利家へ早飛脚を立てられた。
今度、誓詞を交わし、「罷り上ったことは、武略のように思われたことでしょうが、戦の道では、このようなこともお互い有る事と思し召し下さい。我が主君信長公を明智日向が無道にも当月二日に討ち取りました。この上は光秀と主君の弔い合戦を行って討ち死にする覚悟です。もし、拙者の武運が長らえば、これまで言ったことは目出度く、以来は御意を得る覚悟でおります」と。(中略)
この書状を毛利家に早飛脚で遣わした後に福岡の渡しを渡られたということである。
備前の岡山が近くなると、宇喜多秀家は早々と城に入られた。
秀吉は立ち寄りたかったが、急なことなのでもてなしにあずかることもなかった。
秀吉は秀家の五人の重臣たちを呼んで、「秀家を同道して上がるつもりだが、毛利輝元がこれを好機と見て大軍を率いてここまでやってくるかもしれない。先に六、七千ばかりも来たら五人の衆が有無の一戦を遂げられよ。(中略)毛利がこの城を一度に攻めることはないであろう。毛利は付け城を二つほどは築くことであろう。そのときは、人数五百ばかりを率いて夜討ちの大将とし、あと二百、三百ばかり三組に分けて付け城を普請しているところに夜討ちをかけられよ。皆は戦巧者なのでいうまでもない。我らは姫路へ帰っても、三日とは逗留しない。そのまま打って出て光秀を討ち果たす覚悟である」と「さらばさらば」と岡山に立ち寄ることもなく通り過ぎて行った。

タイトルとURLをコピーしました