佐和山城部材の解体使用

井伊氏にとって、佐和山城の建物をそのままの形で彦根城に移築して使用することは石田色の一掃にはならず、そのため、原形を留めなくするため、わざわざそれらを解体して部材としてどこかに使用したということなのであろう。
これをもってしても、井伊氏は佐和山城を破壊して、石垣の石をすべて彦根城築城のため持ち去っただけではなく、そこに残されていた建物までも解体して、石田色の徹底的な排除を行おうとしていたことが推定できる。
また、海津栄太郎氏は彦根城は完成に二十年を要しており、石垣が本格的に積まれたのは第二期の工事であるとされていることから、佐和山城の石は短い期間で持ち去られたのではなく、二十年近くの間に徐々にとりはずされていったのではないかとしている。(城八十号『佐和山城』)
こうして、佐和山城は井伊氏の手で地上から抹殺されていったが、それでは井伊氏は次なる城の候補地をなぜ彦根山にしたのであろうか。

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