南宮山布陣の意味

戦略上から見ると、この山に布陣することは意味がないことはない。
ここ南宮大社の裏山に毛利が布陣したのは慶長五年(一六〇〇)九月七日のことである。
このころ、近くの大垣城には宇喜多秀家、小西行長、石田三成、島津義弘という西軍本隊がおり、東軍はそれを睨む形で大垣城から川一つ挟んだ対岸にある赤坂岡山に布陣していた。
もし、大垣城が東軍に攻められた場合、南宮山の毛利軍は救援に駆けつけることができる位置にいる。
それは東軍にとって脅威となっていたはずである。
事実、家康は赤坂岡山の本陣に着くと南宮山の位置を確認している。
だが、大垣城にいた西軍本隊は美濃赤坂の東軍本陣に家康が到着した九月十四日の深夜、密かに大垣城を出て関ヶ原に移動して行った。そして、西軍の移動を知った東軍もそれを追って関ヶ原に向かっている。
しかし、毛利軍は西軍本隊に従って関ヶ原への移動を行わなかったばかりか、敵であるはずの東軍が南宮山のすぐ北を走る中山道を通っている時も、それをただじっと傍観するだけで何の手立ても講じなかった。
山から下りて大軍で東軍の移動中を襲えば、大打撃を与えられたことはいうまでもない。
また、東軍もそれを大きく警戒していたはずだ。
だが、毛利軍は「どうぞどうぞお通り下さい」といわんばかりに何もしなかった。

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