10・30講演会より③ 川中島城塞群


一方、武田側から見た犀川の対岸、善光寺の背後には上杉方と思われる山城が善光寺を守るように配置されている。
これらの城を実際に訪れると、海津城の背後を守る武田の城と違ってすべて新たに築かれたものであることが分かる。
謙信は、ここに新たな城を配置して、善光寺、さらには自らの本陣横山城を守ろうとしていたのではなかろうか。
ここから、川中島合戦の目的の一つが善光寺の争奪にあったことが推定される。
事実、武田、上杉両者は弘治元年の第二回川中島合戦で、犀川を挟んで約六ヶ月の間対峙しており、両者とも一歩も譲ることはなかった。
この合戦では、善光寺別当の栗田鶴寿が信玄に呼応し、善光寺を見下ろす旭山城に籠った。信玄はこの城に当時の最新鋭武器である鉄砲200挺を入れ、支援している。
この戦は武田の同盟者であった駿河の今川義元の斡旋で両者の和睦が成立したが、謙信は旭山城の破却を和睦の条件とした。
しかし、栗田鶴寿が武田方に付いたことで、信玄は善光寺の本尊善光寺如来を手に入れ、これを甲斐に持ち帰り、後に甲斐善光寺を建立してそこに安置した。
信玄は本尊のみならず、別当の栗田、さらには善光寺の僧をも甲斐に連れて帰った。
もともと善光寺は本尊善光寺如来を安置するための寺として出発したことから、本尊が移った以上、その機能を失うことになった。
謙信は本尊以外の仏像や仏具を越後に持ち帰り、越後善光寺を建立して信玄に対抗したため、善光寺は何もないただの伽藍と化してしまった。
まさに、この合戦の勝負は信玄に軍配が上がったといえよう。
詳細は拙著『真説川中島合戦』を参照していただきたい。

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