破壊された佐和山城

 私はその後も、年に二、三回は佐和山を訪れ、山の正面、背面など、考えられるあらゆる方面から山の斜面をよじ上って探査した。だが、それでも城跡を示す何の痕跡も見つけることなどできなかった。
 ある時などは、岩ばかりの山の斜面をロッククライミングのように小さな岩や草をつかんで頂上まで登ったこともある。
 今、考えると、もし、足を滑らせたら谷底に真逆さまに落ちて命を失う危険もあった。しかし、そんな危険を冒して山を探索しても、城跡らしい痕跡は何も見つけることはできなかった。
 ただ、分ったことは、この城は城全体を覆っていたであろう石垣が崩されて、そのため、城が原形を留めないほどに破壊されて、山と同化して自然地形のようになっているということである。
 しかも、石垣の石は一つも残すことなく故意に抜き取られており、その破壊のすさまじさを示していた。ただ、山頂から少し下ったところには二個の石垣の残石が忘れ去られたようにひっそりと残っていた。
それは、確かに、この城がかつては石垣作りの立派な城であったことをかすかに物語っていた。

 佐和山城は豊臣秀吉の側近ナンバーワンの家臣であった石田三成の居城である。
 豊臣系の城の特徴を一言でいえば、絢爛豪華という言葉に尽きる。そこでは、高い石垣の上に金箔を施した瓦で葺かれた華麗な天守閣や櫓が建ち並ぶ豪壮なものでそれはそのまま豊臣政権の力を視覚で見せつけるものであったといえる。
 その豊臣家において、秀吉のブレーンとして政権を支えていたとされる石田三成である。その居城である佐和山城にも豊臣家のポリシーが生かされていたのは当然であろう。
 豊臣秀吉は天正十八年(一五九〇)、小田原の北条氏を滅亡させると、天下人の地位を不動のものにした。秀吉は、その間、天下人の城として大坂に大坂城を築き、さらに関白になり、その公邸として京都に聚落第を築いた。
 そして、その防衛の一環として、京、大坂に近い佐和山城に自らが最も信頼する股肱の重臣石田三成を入れたのである。
 石田三成は豊臣政権を担う奉行の中心人物で、佐和山城主になるにあたって秀吉から近江国内で実質三十万石という領地を与えられている。
 まさに、佐和山城は三十万石の大名の城であった。それが絢爛豪華でなかったはずはない。

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