佐和山の破壊(1)

佐和山城は慶長五年(一六〇〇)九月十八日、関ヶ原合戦の三日後に徳川の大軍に攻められ落城している。
このとき、山上にあった天守閣には火がかけられ、その焼ける火は大津あたりまで見えたというから、かなり激しく燃えたのであろう。
私もかつて本丸の直下で、火災によって焼けたと思われる瓦の破片を拾ったことがある。

この佐和山の地に次の領主として井伊直政が入ってきたのは関ヶ原合戦の翌年慶長六年(一六〇一)のことであった。
 徳川四天王、家康の重臣中の重臣ともいうべき井伊直政が家康の命を受け佐和山に入ってきたのは、この地が極めて重要な地であることを何より示している。
 家康はこの佐和山、後の彦根の地を九州や中国地方にいる旧豊臣系大名、さらには大坂にいる豊臣秀頼などに睨みをきかせ、さらには京都の朝廷を監視する重要の地であると位置付け、そこに重臣の井伊直政を配したのである。
 だが、佐和山城は関ヶ原で徳川家康に立ち向かった西軍の事実上の首謀者である石田三成が築いた豪華絢爛な城であった。
 「なんと立派で美しい城よ。さすがは太閤様の側近第一の石田様のお城じゃ。」
 領民たちは、美しい佐和山城を日々見上げることで、豊臣政権の偉大さを粛々と感じていたことであろう。
 佐和山の山頂を中心に周囲を取り巻く高い石垣、さらには山頂にそびえる五重の天守閣と櫓、塀、門、それらは山下からみると実際以上に高く、美しく、また険しく見えたに違いない。
 しかも、山麓は内湖に囲まれ、そこに浮かぶ島には曲がりくねった橋がかかっていた。
 まさに、城は湖から浮き出たような宮殿のようで、その景観は例え様がないほど美しかったことであろう。

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