10.30講演会から 城から見る武田の駿河侵攻①

永禄3年(1560)武田、北条の同盟者で駿河・遠江・三河を領する戦国大名今川義元が尾張の桶狭間で尾張を統一したばかりの新興大名織田信長に討たれるという事件が起きた。
義元の後継者氏真は、敗戦後の混乱を乗り越えようと、懸命な努力をしたが、三河では松平元康(家康)が今川から離反し、遠江でも有力領主が次々と今川を見限って離反するなど混乱が続いていた。
今川の領国駿河・遠江は太平洋に面する豊かな土地であり、内陸にしか領地を持たない信玄にとっては魅力ある領地であった。北信濃での上杉との戦いはまだ継続中であったが、信玄は衰退するばかりの今川との同盟を思い切って破棄して、駿河・遠江への進軍を企てるようになった。
しかし、そこにはいくつもの課題があった。
その一つが、今川といまだに同盟を結ぶ北条氏が武田の同盟破棄を認めず、新たな敵になったこと。
北条は武田を敵とするに及んで、仇敵であったはずの越後の上杉謙信との同盟を模索し始めた。
さらには、信玄の嫡子義信が今川を支持して、信玄に反旗を翻し、自分に付いていた武田の譜代家老家臣飯富虎昌(おぶとらまさ)や側近の長坂源五郎らと内部クーデターを起こした。
また、三河の徳川家康も今川との関係を断って、遠江・駿河への侵攻を企て、武田との衝突は時間の問題となっていた。
家康の背後には桶狭間後、力を付け成長した織田信長がいる。
信玄としては、これらの課題をどれもクリアしない限り、駿河・遠江への侵攻は不可能であった。

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