佐和山城下「聞き書き」の謎6

井伊家の歴史を記した『井伊年譜』によれば、佐和山は西国や中国の押さえとして、また京にも近かったために、家康は重臣で信頼の厚い井伊直政をここに配置したのだとされている。
さらに、『井伊年譜』は、家康が西国九州や中国地方の人質を佐和山において受取らせる考えであったとも記している。
いずれにしても、家康は佐和山、後の彦根の地を九州や中国地方にいる豊臣系大名、大坂にいる豊臣秀頼などに睨みをきかせ、さらには京都の朝廷を監視する重要の地であると位置付け、そこに重臣の井伊直政を配したのである。
当時、大坂には豊臣秀吉の遺児秀頼がおり、形の上では豊臣政権は存続していた。
さらに、豊臣家は関白という公家の最高位への就任の可能性をもtっており、京都の朝廷や公家に影響力をもっていた。
その京都と大坂を監視するのが、佐和山、後の彦根の地であった。
秀吉は京都・大坂の守りとして石田三成を佐和山に入れたのに対し、家康はそれを監視するために井伊直政を入れたのである。
直政がいかに家康から信頼されていたかが分かる。
しかし、この直政の井伊家は初めから家康に仕えてきた家ではない。
井伊氏は、もとは、家康がかつて人質に取られていた今川家に仕えていた。
この井伊氏は藤原家の庶流で、三条天皇の長和年間(一〇一二~一〇一六)に遠江国(静岡県)に遠江守として任じられ、井伊谷に住んだことから「井伊」と名乗ったとされている。
戦国時代、井伊氏は遠江をはじめ東海道に勢力をもっていた今川氏の傘下にあった。
しかし、井伊氏はこのとき後継問題がこじれており、おまけに今川家の当主義元が織田信長に桶狭間で討たれると、その混乱の中、今川家臣たちより織田・徳川氏に通謀しているという嫌疑をかけられた直政の父、直親は殺されてしまった。
そのため、幼い直政は今川家の追求を逃れるために各地を転々とし、天正三年(一五七五)にいたって徳川家康と出会い、そこで臣下の契りを結んだとされている。
このとき、家康は直政に「お前は私のために命を落とした者の子である。私がそれに報いないわけにはいかない」と言って、直政を厚遇したというが、事実はこれから遠江に進出するにあたって、遠江の名族であった井伊家というブランドを必要としたのであろう。

タイトルとURLをコピーしました