ポスト秀吉④

豊臣秀吉は武家による関白政権として豊臣家の未来図を描いていた。
秀吉には晩年嫡子鶴松も誕生し、豊臣家の未来は秀吉の思惑通りに進むかに見えた。 
しかし、鶴松がわずか三歳で夭折したことから、秀吉は実子を諦め、実姉ともの子、つまり秀吉の甥秀次を養子として関白を譲り、豊臣家の後継者とした。
ここに第二次関白政権が誕生し、豊臣政権はこの流れで順当に進むはずであった。
しかし、実子の誕生を諦めていた秀吉に再び秀頼が誕生した。
秀吉としては、秀次よりも実子秀頼に政権を譲りたい。
その思いは日増しに強くなっていった。
単純に考えれば、秀次は秀頼が成人するまでの中継ぎとして政権を維持し、秀頼成人後に政権を委譲すればよいということになろうが、すでに秀次には実子、さらには側室の間にも子が生まれており、秀吉は自分の寿命を考えた時、秀頼への将来の政権移譲に大きな不安を覚えていた。
秀吉は、嫡子秀頼に確実に政権を譲るためには、まだ、自分が元気なうちにその道筋をつけておかねばならないと考えた。
というのは、豊臣配下の大名たちは秀次こそがポスト秀吉の本命と考え、秀次に接近する姿勢を見せていたからである。
その結果、秀次は現関白としてすでに太閤となっていた秀吉に対抗する一つの明確な勢力となりつつあった。

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