松平忠明により改修された作手亀山城

奥平氏の居城亀山城は、古宮城の南東約二・五キロのところにある。
関ヶ原合戦後の慶長七年(一六〇二)長篠城主奥平信昌(貞能の子)の子、松平忠明が再びここに入り改修したことから、城は一部近世化しているが、基本的な縄張りは武田氏時代のものを踏襲しているようである。
天正元年(一五七三)に奥平貞能は作手から脱出したが、長篠の合戦後、天正三年(一五七五)には再び作手を領有することになり、孫の代に奥平氏は再び亀山城に戻ってきたのであった。
この城の特徴は東西六〇メートル、南北二八メートルの規模で、周囲を高さ約三メートルの土塁がめぐる本丸の二つの虎口の前面に馬出しが設けられていることである。
特に南西の虎口は武田氏の特徴である丸馬出であったようである。
ただ、虎口、中でも北東の虎口には大きな櫓台が設けられ、そこは櫓門であったようで、ここなどは近世の改修の跡であろう。
このように、奥平氏の居城亀山城にも武田氏の改修の跡が見られることから、この城にも武田軍の兵士が入っていた可能性が高い。
奥平氏は武田氏時代にこの城では一画を与えられ住んでいたのか、それとも別の場所に移されていたのか。
いずれにしても作手の城は武田氏の手で短期間に強力な改修を加えられ、そこに武田軍の兵士が入り、この地は家康・信長を見据えた一大駐屯基地として機能していたことは間違いない。

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