関ケ原合戦直前の家康①

関ヶ原合戦の直前、1600年4月11日に豊後臼杵(大分県臼杵市)にオランダ船「リーフデ号」が漂着するという事件が起きた。
「リーフデ号」には貿易品としての毛織物、装飾品として珊瑚のビーズ、琥珀、色ガラス、鏡、眼鏡などが積まれていたが、一方で複数の小型大砲、鉄砲500挺、鉄砲弾5千発分、火薬約3000キロ、火矢350本らも積まれていた。
かねてから日本でキリスト教の布教を行っていたイエズス会宣教師たちは、この船は海賊船だと長崎奉行寺沢広高に吹聴したため、寺沢はこれを大坂城にいる家康に報告。、家康はすぐに乗組員を大坂まで連行させ、自ら尋問を行った。
家康はポスト秀吉の外交方針として、平和外交を望んでいた。
家康は手始めに朝鮮出兵していた武将たちを日本に帰国させたが、それは明や朝鮮との国交正常化を早期にはかるためでもあった。
さらに、家康は秀吉によって武力征服の対象とされた東アジアの他の諸国にも書簡を送って外国貿易の促進に向けて日本の門戸を開こうとしていた。
特に朝鮮に対しては、秀吉の死の翌年、対馬の宗氏に命じて講和交渉を行わせた。
朝鮮出兵でさんざん辛酸を嘗めさせられた朝鮮との交渉は難航したが、家康は十年かかって日韓講和を成立させ、(「慶長条約」)国交の正常化を実現させた。
明国に対しては、度々勘合貿易の復活を求めたが拒否され、国交回復はならなかった。また、タイ、カンボジア、ベトナムなど東南アジアの諸国との通交関係も積極的に行おうとしていた。

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