外国人宣教師の見た日本の戦国時代㉞

ヴァリニャーノは『日本布教長の規則』の中で「日本人は領主の意向に左右されるところが大きい、領主からの好意と援助がなければ、キリスト教徒が信仰を保持して進歩することも、また、改宗を拡大することも不可能である」と述べている。
この論理に基づき、イエズス会はキリスト教徒の領主への軍事援助を行うことで、宗教改宗事業を拡大し、日本人信者の身の安全を担保して日本での基盤をより堅固なものにする戦略を抱いた。
イエズス会士たちは、ポルトガルに口利きをし、ナウ船が積んでいるヨーロッパ製の武器を、大友、大村、有馬の大名に調達・供与して「死の商人」の名にふさわしい活動を展開した。
大友宗麟は、1567年(永禄10年)在マカオの司教ベルシオール・カルネイロに書簡を送り、硝石200斤の送付を要請し、この硝石で毛利輝元に勝利した暁には、山口にイエズス会士を派遣し、手厚く保護するとし、翌1568年には同じくカルネイロに、大砲を送るよう求め、それと引き換えに領内の教団関係者とポルトガル人を保護する旨を表明している。
宗麟は直接カルネイロと交渉したのではなく、両者の間にはイエズス会士が介在していた。
何より、書簡はポルトガル語で書いてあることから、それは明らかである。
宗麟の硝石と大砲の入手にあたっては、イエズス会士が彼の名代として斡旋行為に従事していたといえる。

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