外国人宣教師の見た日本の戦国時代55

布教保護権により、イエズス会の宣教師たちも単なるボランティアではなく、国家事業の一環を担うべき存在となっていった。
それにより、イエズス会は、ポルトガル国王から経済的援助を受け、布教事業に伴う莫大な費用を権利として要求できるようになった。
こうして、イエズス会はポルトガルという国家と共生し、その後ろ盾を得たが、それはイエズス会自身の世俗化につながった。
だが、地上でどこまでも教勢を拡大させていくには、ポルトガル国王の援助だけに頼るだけでは無理であった。そこでは、膨大な布教資金を捻出するために、教団自身も広範な貿易等を行うしかなかった。
ザビエルは、1549年6月20日付で、マラッカから書き送った書簡の中で「イグナティウス神父(総会長)とシモン・ロドリゲス神父(管区長)に、そちらにいるすべての神父が挙げている成果を数え上げて、詳しく書いた手紙を送ること、(その手紙には)善い模範(になるような内容だけ)を書いて、善い模範にならないようなことは書かないよう注意すること、イグナティウス神父(総会長)とシモン・ロドリゲス神父(管区長)に書く手紙は、たくさんの人が読むことを考慮に入れて、善い模範にならないことは決して書かないように」と述べている。
ここに、ザビエルはイエズス会の宣教師たちの布教活動による成果を広く周知徹底させることを指示している。
だからこそ、善い模範のみの記述を求めざるを得なかった。
このザビエルの考えは、その後、「年報」に代表される教化書簡の作成という形で具現化される。

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