天空の池の発見

以前、滝山城「千畳敷」の北側は樹木が生い茂り、眼下にわずかに多摩川の清流が見える程度で、そんなに景観はよくはなかった。
しかし、先のNPOの皆さんがが樹木を伐採し、草を刈ってくれたお陰で景観は一変してしまった。
眼下には多摩川、秋川の清流がよく見えるばかりか、その先には秩父の美しい山並みもよく見えるようになった。
まさに清流の流れと美しい山並みが一幅の名画のように広がる絶景、当時、北条氏が賓客に見せたであろう景観がよみがえったのである。
もし、「千畳敷」に望楼のような建物があったとしたら、さらに美しい景観が臨めたことであろう。
「ここからの眺めはいかがかな?」
「絶景でござる」
景色を借景にして、使者と酒を酌み交わすような場面もあったかもしれない。
だが、樹木の伐採はそれだけに終わらなかった。
「千畳敷」の北側すぐ下の樹木を取り除くとそこから三段からなる郭が出現し、さらにその下に密集していた篠竹が刈り取られると、何と、池の跡が姿を現したのであった。
そればかりではない。池の中からは「中の島」までが現れたのであった。
江戸時代、慶安年間(一六四八~一六五一)に作られたとされる滝山城の古図には「中の島」などは一切描かれてはいない。
つまり、今から三百六十年前には「千畳敷」の北側一面はすでに樹木や草、篠竹に覆われて何も見えない状態であったということである。
まさに、「中の島」は四百年もの沈黙を破って我々の前に姿を現したのであった。
だが、この池の中に浮かぶ「中の島」、実は北条氏照の実弟氏邦の居城鉢形城(埼玉県寄居町)ですでに見つかっていた。
この鉢形城は池の中に「中の島」が設けられ、そこには弁天社が祀られていたことが分かっている。
この滝山城の「中の島」も規模や大きさがほとんど鉢形城のものと一致するため、同じく弁天社が祀られていたと推測された。
ただ、滝山城の場合は、谷間を利用して湧き水を堰き止めて水を貯め、池としたことが推定された。
というのは、滝山城は今も谷からこんこんと水が湧き出ており、その湧き水を堰き止めたと思われる土塁の跡が残っているからである。
そうなると、滝山城は山の中腹の谷に水を満々とたたえた人口の池があったことになる。
池は「千畳敷」の敷地の中に作ってもよかったと思うが、この城ではわざわざ湧水をせき止めて谷間に池を作っている。
この趣向は大変珍しい。
そこでは池の中に「中の島」が設けられ、弁財天が祀られていた。しかも、「中の島」は池の中央ではなく、やや本丸直下に偏っているところから、そこには本丸下から弁天社に行くための橋も架けられていた可能性がある。
赤い柱の社の弁財天とそこに行くための池を渡る赤い橋、想像しただけでも水の青と調和して美しい景観がかもしだされる。
また、池は「千畳敷」の北側真下の谷にあり、「千畳敷」からは三段の郭を一段ずつ降りて池に出るという構造になっていたようである。
それは、郭から池に降りる虎口が見つかっていることから推定できる。ちなみに、この郭から池に降りる虎口は鉢形城にも見られる。そして、そこから池に出るには小舟を使うしかないものと思われた。
そう考えると、池は小舟を浮かべて酒宴を催したり、歌を詠んだりという、まさに賓客を迎えての優雅なセレモニーを行う空間であったことが想定できる。
わざわざ谷間に水をせき止めて池を作ったのはそんな意味というか趣向があったのではなかろうか。
「千畳敷」の建物から池を見下ろすのも絶景、池に船を浮かべて遊ぶのも優雅である。
まさに滝山城を訪れた賓客はその雅な発想に感動して帰っていったのかもしれない。
「北条家のもてなしは最高でござった。拙者はあの谷間に作られた池の趣向にはほとほと感心いたすばかりでござった」
滝山城を訪れた大名たちの使者のそんな声が聞こえてくるようである。
「使者のお方の首尾はいかがか」
「上々でござる」
この趣向で北条家は文化人大名として面目を保ったに違いない。
また、「千畳敷」から池に降りる三段の郭も色とりどりの季節の美しい花で覆われた花壇のようなものだとしたらその景観はさらに美しさを添える。
「千畳敷」はまさに眼下にそんな美しい景観を見せるハレの場であり、北条家が威信をかけて創出した文化と美の空間であったのではなかろうか。

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