地図の上からは分からない②

南宮山をきついと思っているのは現代に生きる筆者だけではなかった。
石田三成も大坂城にいる豊臣家の奉行増田長盛に宛てた手紙の中で「毛利の陣所は垂井の上にある高山で、人馬の水もなく、人の上り下りもできないほどの山で味方も不審がっている。」と述べている。
「ほら、みろ、当時の武士である石田三成でさえ、南宮山がきついといっているじゃないか。」筆者は少し自信をもった。
しかし、三成が不審に思うのも無理はない。ここでは布陣に伴う一万六千の兵を支える日常の水や食料などの生活物資の運び入れすら大変な困難を要したであろうことは容易に想像できる。
まさに、三成が抱いた不審は実際に山に登ってみると心から納得できる。
「こんな不便できつい山を陣地に選んだ毛利の本音はいったいどこにあったのだろう。」
このとき、筆者にはその意図がさっぱり理解できなかった。
さらに、苦労して登った頂上でもう一つ驚いたことがある。
それは、この山の頂上からは関ヶ原の戦場がまったく見えないということである。
実は、この山のすぐ西に見えるのが正真正銘の南宮山(毛利が陣を布いた山は正確には南宮山ではなく、その支尾根の頂上であり、その西にある標高419メートルの山が本当の南宮山である)、そして朝倉山という山で、この二つの峰が関ヶ原への視界を完全に遮っているのであった。
地元の方のお話では、山頂から一時間ばかり西に尾根上を歩けば、やっと関ヶ原は見えてくるという。
登るのが大変でおまけに主戦場である関ヶ原がまったく見えない。
南宮山とはまさにそんな山だった。
これは陣を布く場所としては誰が見ても不適当しかも最低最悪である。 
ただ、戦略上から見ると、この山に布陣することは意味がないことはない。
ここ南宮大社の裏山に毛利が布陣したのは慶長5年(1600)9月7日のことである。
このころ、近くの大垣城には宇喜多秀家、小西行長、石田三成、島津義弘という西軍本隊がおり、東軍はそれを睨む形で大垣城から川一つ挟んだ対岸の赤坂岡山に布陣していた。もし、大垣城が東軍に攻められた場合、南宮山の毛利軍は救援に駆けつけることができる位置にいる。それは東軍にとって脅威となっていたはずである。
事実、家康は赤坂岡山の本陣に着くと「あれが毛利の陣する南宮山じゃな」と南宮山の方角を確認している。

タイトルとURLをコピーしました