常勝ではなかった?武田軍団

戦国の名将、武田信玄率いる武田軍といえば戦国最強で負けなしの常勝軍団というイメージが強い。
それは一つには、信玄晩年の元亀3年(1572)に遠江(静岡県西部)三方ヶ原で後に天下人となる徳川家康の軍を完膚無きまでに破り、その強さを天下に示したことによる。
そんな強いイメージのある信玄だが、実は、生涯で何度か大敗を期し、絶体絶命の危機に立たされている。
その信玄の最初の敗戦となったのが、信州上田ヶ原の合戦である。このとき、信玄はまだ27歳の若き武将であった。
天文10年(1541)21歳で家督を継いだ信玄は信濃経略を掲げ、最初に諏訪を平定すると、そこを足がかりに伊那・佐久地方を次々と侵略していった。
もとより信濃には国全体を治めるほどの力ある武将は存在せず、それぞれが郡単位に小さくまとまっていたこともあって、そこでは向かうところ敵なし、信濃の武将たちは信玄に次々と城を落とされ屈服していった。
このままの勢いが続けば、信濃侵略は時間の問題とさえ思えた。

だが、そんな信玄の前に立ちはだかった一人の壮年の武将がいた。
それが、北信濃更科郡・埴科郡などの川中島地方を本拠地とする村上義清である。村上氏は村上源氏の血を引き、古くから北信濃に勢力をもつ信濃の名族で、義清の代には先の地域に加えて高井・水内・小県さらには佐久郡にまで力を伸ばそうとしていた。
諏訪を支配下に納めた信玄にとって、このまま信濃の侵略を続ける限り次の相手が村上氏になることは必然であった。また、村上氏にとっても甲斐の若き侵略者信玄を倒さない限り、未来はなかった。
信玄は諏訪から雪を押して大門峠を越え、小県上田(現在の上田市)に向かった。そして、その知らせを受けた村上氏も出陣した。
天文16年(1547)2月14日、武田・村上両者は震えるような寒気の中、現在の長野県上田市の西方にある上田ヶ原で千曲川を挟み対陣したが、ついにそれぞれが川を渡って合戦に及んだ。
合戦は、当初、両軍入り乱れての混戦であったが、上田の地理に明るい村上軍が徐々に武田軍を追い込み、終には、武田軍の構えを打ち破って勝利を挙げた。
ここでは、信玄は自らも傷を負ったばかりか、片腕ともいうべき伊那郡代の板垣信方をはじめ、甘利虎泰、初鹿野伝右衛門などの重臣が討ち死するという大敗北となった。
ここまで連戦連勝で負け知らずの戦いを繰り広げてきた信玄にとって初めて味わう大きな敗戦であった。
当時信玄に従軍していた重臣駒井高白斎の日記によると、信玄は、合戦後もしばらく上田ヶ原の戦場から立ち去ることをせず、何と二十日間もそこに留まっていたという。
そこで、困り果てた駒井ら重臣は、信玄の実母大井夫人に、信玄が一日も早く上田ヶ原より立ち去るように説得してもらった。このまま戦場に残り続ければ、再び敵が攻めてこないとは限らないのである。
しかし、信玄は母の説得にも頑として耳を貸さず、そこから動こうとはしなかった。
信玄は上田ヶ原に立ち続けることで、戦いに負けることの悔しさ、大切な重臣たちを失ったことの悲しさ、そして、その責任の重さを自らの五体に刻みつけようとしていたのかもしれない。
また、戦場に残り続けることで、敵に後ろを見せることをしなかったともいえる。
「戦いはこれで終わったわけではない。我が武田軍は何があっても一歩も退くことはないのだ。」
信玄はそう叫びたかったのかもしれない。

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