三本目の街道を守る下黒川城

境目三本目の街道は那須塩原から七曲を経て奥州下黒川に至る街道である。
ここでは黒川という幅百メートルほどの川を渡らなければ上杉領には入れない。
そのため、川の存在が大きな防御線となっている。
当時、ここには正規の橋など架けられてはいなかったと思われ、船か船橋を架けるしか川を渡る手段はなかったものと思われる。
川を渡ると上杉領に入るのだが、川を渡ったすぐ北東に渡河地点を見下ろす低い山があり、その山頂に「下黒川館」と呼ばれている城が築かれている。
この城はまさに黒川の渡河地点を押さえる関所の役目を担った城であったろう。
ただ、この城は小規模で複数の小さな郭が堀で囲まれただけの構造となっている。

(下黒川城概念図)
(洋泉社『北の関ケ原合戦』より)
この城も巧みに築かれてはいるが、上杉の大軍が置けるようなものではなく、基本的には城を守る主体は村人たちであったのではなかろうか。
このように、境目の遺構を見た限りでは、下野那須側は徳川軍が主体で城を築き、兵を置いているのに比べ、会津白河側、つまり上杉側は村が主体であったことが推定される。
それではなぜ上杉側ではそのような事態が起こったのであろうか?

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