ポスト秀吉⑤

秀吉は、秀頼への確実な政権委譲のためには、すでに対抗勢力となりつつあった現関白秀次の排除とその勢力の解体が必要だと考えた。
そこで、秀吉は秀次に謀反の疑いをかけ、関白の座を奪い、一時的に高野山に追放しようとしたが、秀次は秀吉の意に反して、自らの切腹をもって秀吉に身の潔白を訴えた。
だが、秀吉はそれを逆手にとって利用した。
秀吉は秀次の切腹こそが何より謀反の証とし、秀次の正室、側室さらにはその間に生まれた秀次の血を引く子どもすべてを葬り去ってしまい、秀次の血を根絶やしにしてしまったのであった。
その結果、豊臣政権は必然的に関白不在の政権となってしまった。
秀吉が存命のうちは、政権のトップは前関白の太閤秀吉がつとめることで矛盾はなかったが、秀吉没後は、まだ幼児の秀頼をすぐには関白にすることなど到底出来ない。
少なくとも、秀頼が元服し、関白に就任するまでは、そのまま政権を維持しなければならなかった。
そこで、秀吉の死後、政権の執行者であった石田三成、増田長盛、長束正家らの奉行は、関白の代わりに「豊臣公儀」という実体を作ろうと考え、政権の執政を担う奉行が諸大名の上に君臨する体制を作ろうとした。
奉行は秀吉の決めた置目に従って粛々と政治を執行し、大名は徳川、毛利、上杉らの大老といえども奉行のもとにおいて政権運営を行うという体制を作り、秀頼が成人するまで政権の安定をはかろうとしたのであった。

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