関山合戦の真実2

(関山城大手道)

伊王野軍が関山に密かに早く登るにはわざわざ山の北に回り込んで危険を冒して大手を行くより、きつくとも南側の搦手から登るしかない。だが、関山南面山麓には内松・番澤などの村があると同時にそこは関山で最も警戒しなければならない場所でもあり、防備上の重点地域であったことは間違いない。
この場所は大量の上杉軍が常駐していた可能性が高く、そのような強力な防衛線を伊王野軍がいかに明け方とはいえ、簡単に突破できたとは到底思えない。
さらには、関山合戦では山麓での戦いが描かれているが、この山麓も関山の南山麓であったと思われ、相当の兵数がなければ、逆に上杉軍に取り囲まれて全滅する可能性が高いと思われる。
そして、最大の疑問は徳川軍によって伊王野城に閉じ込められていたはずの伊王野資信・資重父子が家康の命を無視して、城を抜け出して上杉領にまで攻め入っていることである。
もし、そのような兵を投入しての奇襲戦を行うには当然徳川軍の許可がいると思われるが、そんな上杉軍を刺激するような作戦を徳川軍が許可するはずはない。
となると、彼らは徳川軍の目を盗んで密かに城を抜け出すしかないが、それではまとまった兵や武器など満足に用意できるはずはない。
このように「関山合戦」については、どこまでも不可解さと疑問が残る。
もし、上杉、伊王野両者で何らかの合戦が行われたとしたら、境目の百姓たちによる小競り合い程度のもので、それは上杉軍や徳川軍が正式に命令を出したという性格のものではなかったのではなかったろう。
この関山合戦は上杉領最前線を守りながらも、合戦一つすることはなかった伊王野氏に代表される那須衆の存在をアピールするために作られたエピソードではなかったか。

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