ポスト秀吉⑦

もし、このまま国力が低下していけば、東アジアの覇権を狙うスペイン・ポルトガルに付け入る隙を与え、日本の植民地化につながる事態を招くとも限らない。
ただ、ポルトガル・スペインは朝鮮半島をあっという間に制圧した日本の高い軍事力に恐れをなし、日本の植民地化の計画は鳴りを潜めることにはなった。
そんな危機的な状況を一人誰よりも感じ取っていたのは豊臣政権大老筆頭の徳川家康であった。
家康は太閤秀吉の決めた置目を遵守することより、自らが政権の中枢となり、強力なリーダーシップを発揮し、国家の舵取りを行うことが、今一番の急務であると考えていたようである。
ここに当時の家康の構想、ビジョンの一端が垣間見える出来事がある。
関ヶ原合戦の年、1600年4月11日に豊後臼杵にオランダ船「リーフデ号」が漂着するという事件が起きた。
「リーフデ号」には貿易品としての毛織物、装飾品として珊瑚のビーズ、琥珀、色ガラス、鏡、眼鏡などが積まれていたが、一方で複数の小型大砲、鉄砲500挺、鉄砲弾5千発分、火薬約3000キロ、火矢350本らも同時に積まれていた。
長崎奉行寺沢広高はこれを大坂の家康に報告した。
すると、家康はすぐにこれに応じ、乗組員の代表を大坂城まで連れてこさせて家康自らが尋問することとした。

タイトルとURLをコピーしました