関ケ原合戦直前の家康②

ちなみに、関ヶ原から五年後、江戸幕府成立後にはタイ、ベトナム、カンボジアなどの東南アジア諸国と国書を交換して通商の確認と安定がはかられている。幕府が渡航許可証を発給して安全を確保する「朱印船貿易」も行われるようになっていく。
リーフデ号事件の時点では、長崎でポルトガルによる日本の貿易の独占が行われていた。
だが、それは家康にとって決して望ましいことではなかった。
家康は出来れば他の国の事情も知りたかった。
そのため、寺沢からの情報はポルトガル以外の国との貿易の可能性を示唆するものとして、家康は積極的に対応したのであった。
漂着したリーフデ号は、多くの武器・弾薬を積載していたことから、一方でイエズス会の言うような海賊船との疑いも捨てきれなかった。
ただ、家康はポルトガルとオランダ・イギリスが戦争中であることを知っており、イエズス会がオランダやイギリスを海賊呼ばわりしている可能性もあるとの疑惑をもっていた。
その疑問を払拭するためにも、家康は自らが船の乗組員に直接尋問する必要性を感じていた
家康は「リーフデ号」乗組員のウイリアム・アダムス(後の三浦按針)とヤン・ヨーステンを大坂城に呼び、自ら尋問した。
家康は外国人である二人に最初から好意的な態度で臨んだ。

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