関ケ原東軍本陣岡山の謎


   ( 岡山山頂家康本陣跡 )

慶長5年(1600)8月23日、家康の西上を阻むため石田三成が美濃口防衛の重要拠点として重視していた岐阜城は福島正則、池田輝政ら徳川方の軍勢によって陥落した。
徳川軍は、そこからさらに兵を進め、翌24日、大垣城の北西約4キロ、美濃赤坂にある標高53mの低山、岡山に陣を布いた。
この時点では、家康はまだ江戸にいたが、大垣城を拠点とする大坂方に対して徳川軍はここ岡山を拠点とし、家康の到着を待つつもりであった。
その岡山は現在も大垣市の北西、美濃赤坂駅のすぐ西にそびえている。
現在の岡山は山麓にある安楽寺の墓地が斜面に造成されてはいるものの、全体的にひどい破壊はなされておらず、基本的には当時の縄張りがそのまま残っているものと推定される。
岡山はなだらかな低山で、山麓から10分もあれば簡単に山頂に到達できる。
山頂には現在水道施設が設けられてはいるが、合戦当時から広く削平されていたものと思われ、そこが、岡山の中心的な曲輪で、家康は合戦の前日の9月14日、そこに入ったものと思われる。
山頂をとりまく斜面は切岸状となって、一部腰曲輪が形成されているようだが、大規模なものではない。
また、大手の登り口には当時は浅い堀が存在したようでその痕跡が今もわずかに残っている。
ただ、それ以上の大規模な普請などはどこにも見られず、岡山には大規模な普請がなされた痕跡がない。
岡山は要害性の高い作りにはなってはいないのである。
当時、三成は前線の岐阜城を失ったことから、大きな危機感を覚え、大垣城とその周辺にさらなる戦力の集中をはかろうとしていた。
その三成の意を受けて、この後、伊勢方面から宇喜多秀家、毛利秀元、吉川広家、長曾我部盛親らが、加賀・越前方面からは大谷吉継らが次々と美濃に入っている。
そのような情勢の中で、本陣岡山はいつ三成らの攻撃を受けるかもしれず、このような要害性の低さでは心もとないことは事実である。
当時、岡山の周囲には、福島正則、池田輝政、黒田長政ら歴戦の武将、そして彼らが率いる兵約3万が岡山を取り囲むようにして布陣しており、労働力は十分にあったはずであるが、なぜか、大規模な普請をな行った形跡がない。
何故なのであろうか。
ここに関ケ原合戦の謎を解く大きな手掛かりの一つがあるのかも知れない。

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