明年2月2日に『竹中重門と百姓の関ケ原』を出版することになりました。
これは、本年4月に行った関ケ原、垂井の現地調査を踏まえ、中田正光先生と議論を重ねて執筆に至ったものです。
石田三成の家康迎撃構想を打ち砕いたのは、不破郡特に垂井・関ケ原の領主であった竹中重門であったというのが本書の結論ですが、その中で彼が一番苦慮したのは領内の百姓たちをどう守り、戦場と化した関ケ原をどう復活させるかということでした。
重門はそれを三成ではなく、家康に託したのでした。
徳川方についた武将たちは岐阜城を落とした後は、大垣城ではなく三成の佐和山城を次のターゲットと決めました。
佐和山城に進軍するためには、関ケ原を通過しなければなりません。
つまり、その時点で関ケ原が戦場になることが決まったのです。
徳川軍はそれに伴って、垂井から関ケ原にかけて放火をし、領民たちはそこから逃げ出すことになりました。
関ケ原の領主であった重門の領地は戦火に見舞われ、重門は領主としての責任を果たせないことになったのでした・・・・

。(竹中重門の居城菩提山城本丸)