『川角太閤記』巻2を読む 秀吉、賤ケ岳へ

越前に遣わしていた目付が帰り、「峠の雪はもはや積もりました。馬などの通行ももう難しいと思います」との事である。
「時分は良い」と播磨を打ち立たれることになった。
宇喜多八郎(秀家)を先陣とし、一万五千の兵を率いてはや播磨に詰められた。
隣国の大名・小名ははや筑前守殿の天下だと見ない人はいなかった。
都合十二三ヶ国を打ち従えた故、殊の外、猛勢になってしまった。
美濃殿は摂津の国・河内・丹波・山城勢を率いて賤ケ岳へ向かわれ、材木を駆使して城三つひしひしと時を移さず構築なされた。
賤ケ岳砦には美濃殿がお入りになり、その次は中川瀬兵衛、さらに一つの砦には高山右近、以上三つの砦で柴田殿を押さえられた。
滝川左近、伊勢長島より出たとのことで、備前の八郎殿、その他、二万騎の勢で滝川を押さえた。
秀吉は岐阜へ取り掛かり、ひたひたと取り囲んで幾重にも尺を振り、総構えの周辺に塀をかけ、外には乱杭を構築し、仕寄を付けられた。
このような手堅い普請は信長公の時代にもなかったと噂されたほどであった。
自身は大垣の城へ入り、静かになされて、時々陣地を回られたようである。

その年も明け、天正十一年四月十七日に御舎弟美濃守殿より桜井佐吉という小姓が早使いとして大垣へ到着した。
「柴田修理が大軍を率い、賤ケ岳へ向かってまいりました。柴田の先陣は甥の佐久間玄蕃、徳山五兵衛、前田又左衛門、この三人と思われます。」と報告すると「いよいよ柴田が出てきたか」と兼ねての覚悟であった。
秀吉は岐阜城を取り巻いて、人数を施されていたが、岐阜より大垣へ引き返し、「人数を夜動かすぞ、高い声などは出すなと物頭に堅く触れよ。大垣には直接寄らず、賤ケ岳への道を進むと心がけよ」と堅く仰せ付けられ、自身は十九日の夜、城を出て賤ケ岳へと馬を早められた。

タイトルとURLをコピーしました