外国人宣教師の見た日本の戦国時代㊶

イエズス会士たちは、ポルトガル人のナウ船とともに当地に身を置き、ナウ船が出航すると、別の土地へ移った。(1579年12月14日付ロレンソ書簡)
長崎に入港したナウ船のもたらす硝石、大砲、銃などの軍需物資は有事の際には武器として大村純忠、有馬晴信らに供されていたが、ここから分かることは、ナウ船が武器供給庫として機能していたこと、教団をはじめ、キリスト教徒領主も、ナウ船の軍事的保護下にあったことを示している。
それゆえ、イエズス会士たちは、次なる安全を求めて、ナウ船の入港先へと場所の移動をしなければならなかった。
こうして、教団は迫害が勃発したとき、教団関係者の身の安全を保障する避難所を手に入れなければならなくなった。
また、イエズス会はマカオのポルトガル人から日本向けの生糸の一部を割り当ててもらい、それを長崎で売却し、教団運営の財源の一部としていた。
さらに、生糸貿易の利潤の中から、布教活動に必要な額の残りをインドの不動産に投資して運用することで教団資産の蓄積に努めた。
だが、戦争にともなう出費は教団運営に大きな負担となるほどの支障をきたし、このままでは滅亡するという危機感すらもっていた。

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