臼杵(丹生島)城

大友宗麟は、府内(大分)の館から、臼杵の丹生島(にゅうじま)城(現在の臼杵城)に本拠を移しますが、この城はもともと海に浮かぶ小さな島の上に築かれた城でした。
現在は、周囲がすべて埋められ、海に浮かぶ城という感じはしませんが、当時は細い道一本だけで陸地とつながっていたとされており、島そのものがすぐれた天然の要害であったことが分かります。
島を整地し、平らにすれば、一つの大きな曲輪になり、そこを堀や塀で区画すれば、複数の曲輪を作り出すことが出来たはずです。
宗麟はここに政庁を兼ねた館を立て、島に近い海岸線に教会などを作らせたといいます。
臼杵は当時は南蛮文化の漂う先進的な町であったことでしょう。
大友氏が耳川の合戦に敗れて以降、島津氏は大友領国に攻め入り、宗麟の丹生島城も島津軍に包囲されますが、天険の地形に守られた城は島津軍を寄せ付けませんでした。
大友氏滅亡後、この城のもつ天険の要害地形は重視され、要所に石垣が築かれ、天守閣を伴った近世城郭に生まれ変わりますが、岩の城壁はそのまま利用され今日に至っています。
たまたま訪れた日は、城内では花見が行われており、老若男女で賑わっておりましたが、私は城の周辺も歩き、かつて島であった名残をたくさん見つけて、なぜか懐かしい気持ちになりました。
かつての孤島の面影を残す臼杵城は、大好きな城の一つになりました。

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