外国人宣教師の見た日本の戦国時代㊱

今週のNHK学園歴史講座は「大航海時代と戦国」の第二回目として、宣教師たちが語る織田信長、そして、信長は彼らに何を求めたのかなどを学びました。
さて、前回は大友宗麟とカンボジアとの通交について述べましたが、宗麟はポルトガルーイエズス会ルートの他に、カンボジア経由でも武器その他の軍需品を入手できる術をもっていたことが分かります。
この背景には、ポルトガル船は1559年(永禄2年)を最後に豊後へは入港しなくなったことが考えられます。
宗麟は豊後国内での鉄砲生産が可能になるまでの間、それらのルートを通して鉄砲を入手していたと思われます。
一方、キリシタン大名として有名な肥前の大村純忠は、1563年(永禄6)、30歳のときに、家臣とともに洗礼を受けていますが、領民にも改宗を強制し、領内の寺社や祖先の墓所の破壊を命じるほどでしたが、それは一部の家臣の間に強い反発を引き起こすことになり、養父大村純前の諸子である後藤貴明はそうした不満分子と手を組んで反乱を起こしました。
大村純忠はもとより政権基盤が弱く、持っている軍事力も十分ではなくすぐに、窮地に追い込まれました。
このとき、純忠は福田港にいたポルトガル人から火縄銃の提供を受け、この危機を脱しました。(1566年11月15日付ジョアン・カブラルの書簡)
このことから分かるように、イエズス会士は、ポルトガル商人に強い影響力をもち、ナウ船を「親教会派」の港に入港させていましたが、それは「死の商人」の姿そのものであったといえます。

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