外国人宣教師の見た日本の戦国時代㉟

今週はNHK学園の歴史講座でも「大航海時代と織田信長」というテーマで学びます。
このブログでは引き続き、宣教師の見た戦国について述べてみたいと思います。

豊後の戦国大名大友宗麟は、最盛期には豊後・豊前・筑前・筑後・肥前・肥後6ケ国の守護、さらには九州探題にも補せられて、九州北部一円を支配下に置いたが、このことは宗麟が、大友家代々が構築した明を中心とする東アジア地域への貿易ルートを受け継いだことを意味している。
その中でも、筑前博多は、古代より中国との接触を持ち、様々な物資と情報の集積地でもあった。
宗麟が九州における政治支配権を確立する時期は、「後期倭寇」が九州北部沿岸海域にも跋扈し、密貿易ながらも、このルートで軍需物資が日本にもたらされていた時期と重なる。
その意味で、大砲や硝石に関する情報はイエズス会士からのみもたらされていたわけではないが、宗麟が九州北部の統一を完全なものにするにあたって、それらは必要不可欠なものであると認識していたことは間違いない。
だが、明政府による倭寇取り締まりの強化によって、倭寇の活動は終焉を迎え、密貿易による諸物資の入手は困難になった。
このような情勢の中で、宗麟はイエズス会と接触することができ、彼らを通してポルトガル船との交易が展開されるようになったのである。
最近の研究では、宗麟は東南アジアに地方に派船し、豊後府内にはタイやシャム、ベトナムなどの東南アジア産の品々が集積されていたことが明らかになっている。
例えば、宗麟は1573年(天正元年)頃に「九州大邦王」という立場でカンボジアに船を派遣し、その返礼としてカンボジア国王より、銅銃一門、その他様々な品々を贈呈されている。

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