「川角太閤記」巻2を読む 秀吉、舎弟秀長を北庄に派遣する

来年岐阜より御上洛なさるときには、道中の御殿、秀吉が造営されるとのことは尤もである。
近江の材木をお取りしたいとのことは近江に申し遣わされている。
「その上、杣(そま)番匠の事、山城の在々、伊勢にまで早々と申し遣わすべき」と又左衛門殿へ仰せ渡された。
勝家は仰せの通り、懇ろに書付け、飛脚は早々と姫路に到着した。
     
御舎弟美濃守殿、これは後に大和大納言殿と申される方であるが、柴田殿への返礼のために越前に参られたとの様子、又左衛門殿がお持ちになって播州へ参り、勝家よりの誓紙お渡しなされたが、「これに御判、御筆をなさるのを見るように」と秀吉懇ろに申し渡し、筆元を見るようにと仰せ付けられた(中略)
美濃守殿を越前においての歓待、又左衛門殿を播州にて歓待されたときは物の数ではなく、能、幸若舞、数寄屋のことなど言えないくらいであった。
美濃守殿が播州を発つとき、仰せ含まれたことは、「前田又左衛門を歓待したときより、越前での歓待はどうかと推量するのだ。幾日も勝家が逗留するにいえば、逗留せよ。もうすぐ北国は雪が降るであろう。白山の雪はいつごろ、越中の立山は、木の目峠、板取山、中の河内、ひながたけ、これらの山々へ雪はいつごろ降り積もるか、筆を取り、早飛脚で知らせよ。その後、里山に降り積もるであろうがその様子を観察し、これも飛脚で知らせるのだ。里山に雪が降り積もってきたら、勝家に暇を下さるようにお願いし、帰ってくるのだ。里山へ雪が降って来たので、今こそお暇する時期ではないでしょうか。すでに誓紙の筆元は確かめさせていただきましたので、お暇させて下さいとたつてお願いするのだ」と。
勝家の返事には、「どれほど留め置き、歓待仕っても、中国長陣のお疲れや草臥れはまだ取れてはいないことでしょうと推量致します。そうであるなら、お帰りなさいませ」とのことであった。
「晩には、手前より数寄をお出ししましょう。」とその晩、数寄が行われ、夜に入り、「鎖の間」で「明日はお戻りなさるので、祝儀のために」と郷の脇差、正宗の刀、十文字に組んで、それを勧められた。
しばらく、雑談などして時間が過ぎて、その座に掛かっていた一休の達磨の絵を美濃守が褒められたら、勝家が言うには、「あの達磨とけんさんの天目を持っております。御覧下さい」と天目を取りださせ、お目に懸けられた。
「このような見事な天目は見たことがありません」と美濃守がお褒めなされると、「それでは、この二品を進ぜましょう」と勝家は自ら立って、掛物を外し、二品とも美濃守に進呈されたということである。

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